「あ、あの……実は……」朱莉が京極に話そうとした時。「あら? 朱莉さんじゃないの? 何してるのこんな所で……ってああ。そこはドッグランだったのね」買物でもしてきたのだろうか? 全身ブランド物で身を固めた明日香がブランドのロゴマークが入った紙バックを持って立っていた。「あ、明日香さん。こ、こんにちは」朱莉は緊張の面持ちで明日香に挨拶をした。「それで? 新しい飼い主は見つかったのかしら?」明日香は朱莉の隣に京極が座っているのもお構いなしに話しかけてくる。「え……?」それを聞いた京極が小さく口の中で呟くのを朱莉は聞いてしまった。一気に朱莉の緊張が高まる。(どうしよう……。私から説明する前に京極さんに犬を手放すことがばれてしまった……!)一瞬朱莉は目を伏せ、唇をギュッと噛み締めた。そしてそんな朱莉を意地悪い笑みを浮かべて見つめる明日香。「ところで朱莉さん。御隣にいる方はどなたかしら?」明日香の問いかけに朱莉は一瞬ビクリと肩を震わせたが、すぐに答えた。「あ、あの……。この方は……」朱莉が言いかけると、京極が口を開いた。「いえ、僕から説明しますよ。初めまして、京極正人と言います。つい最近こちらに引っ越してきました。鳴海さんとは昨日このドッグランで初めてお会いしました。偶然にも同じ犬種でして、互いの犬が仲良さげに遊んでいたので本日もこちらで一緒に遊ばせていたんです」鳴海……ここで京極は初めて朱莉のことを苗字で呼んだ。そのことに少しだけ驚き、京極の横顔を見上げた。もしかして、京極は朱莉と明日香の張り詰めた空気に何か気付いたのだろうか? 朱莉の心臓の鼓動が早まってきた。(どうか……どうか明日香さん……今日はもう見逃してください……!)しかし、明日香と朱莉の2人の世界で朱莉に優しかったことは一度も無かった。「そうですか。私は鳴海明日香と申します。彼女……朱莉さんは私の兄嫁なんですよ?」明日香はにっこり微笑みながら京極に言った。兄嫁……今迄一度も明日香は朱莉をそんな風に呼んだこと等無かったのに、京極の前で明日香は初めてその言葉を口にしたのだった。「!」京極の息を飲む気配が朱莉にも感じられた。別に内緒にしていたわけでは無いが、今の自分の置かれた環境を京極に伝えるのは惨めだった。それ程親しい関係でも無かったので、敢えて言う必要などは無いだろうと
オフィスで琢磨と打ち合わせをしていた時に、デスクに置いてあった翔のスマホから着信を知らせる音楽が鳴った。2人は何気にスマホを見ると、着信相手は明日香になっていた。「明日香……?」翔は首を傾げた。「明日香ちゃんからメッセージか? 珍しいこともあるもんだな……仕事中の時間は滅多にメッセージを送って来ることは無かったのに。緊急の用事なのかもしれないから見てみろよ」「あ、ああ……。悪いな、琢磨」翔はスマホを見つめ……眉を顰めた。「どうしたんだ? 翔」「い、いや……朱莉さんが……」「何? 朱莉さんがどうかしたのか?」「億ションにあるドッグランで……若い男性と親し気に話をしていたらしい……」「何だ、別にそれ位どうってこと無いだろう?」琢磨は背もたれに寄りかかった。「だが……明日香が朱莉さんはその男性に気があるように見えたって言ってきてるんだ。相手の男性もまんざらでもなさそうだったって……」(もしそれが本当なら俺はどうすればいい? 契約書には世間の目があるから浮気は絶対にしてはならないと書いてあるが……実際は朱莉さんに何一つそんなことを言う資格は俺に無いし……)本音を言えば翔は朱莉に恋愛だって自由にさせてあげたいと心の奥底では考えていた。だが……。「……翔。何を考えているんだ?」気付けば琢磨がじっと翔を見つめていた。「明日香は世間の目があるから朱莉さんに男性と2人きりにさせるような環境を作らないように言い聞かせろとメッセージに書いてあるんだが……」翔はスマホを握りしめた。「……朱莉さんの好きにさせておけよ」琢磨がポツリと言った。「え…… ?お前……今何て……」「だから、朱莉さんの好きにさせておけと言ってるんだ。俺達に朱莉さんに契約婚の間は恋愛禁止、男性と2人きりになるなって言える立場にあるのか? 確かに書類上はお前と朱莉さんは婚姻関係にあるが実際はそんなのまやかしじゃないか。世間を偽る為の偽装夫婦だろう!? お前はいいよ、翔。大好きな明日香ちゃんと2人きりで夫婦ごっこしているんだもんなあ? だが朱莉さんはどうだ? たった1人きりであの広い億ションに住んで、今はさらにマロンとも引き放されなくちゃならない立場に追いやられてる。恋愛の一つ位……自由にさせてやるべきだと俺は思うけどな!?」いつになく強い口調で話す琢磨に翔は唖然としていた。
――16時半朱莉は母親の面会に病院に来ていた。「朱莉、今日はどうしたの? 随分元気が無いようだけど……翔さんにマフラーを渡したらとても喜んでくれたってメッセージを送ってくれたじゃない。何か辛いことでもあったの? お母さんに話してくれないのかしら?」リンゴの皮を剥いていた朱莉は顔を上げて母の顔を見た。「え……とあの……」母に話したいことなら山ほどあった。だが、そのどれもが母には……いや、母だからこそ話せないことばかりだった。(だけど……これだけは話しておかないと……)朱莉はリンゴの皮を剥き終わり、楊枝を差して母に渡した。「う、うん……実はね……マロンを手放す事になったの」「え……? ええ!? ど、どうしてなの? 何かあったの?」「あ、あの……しょ、翔さんが実は動物アレルギーを持っている事が分かって、お医者さんから手放したほうがいいって言われたから……」朱莉は考えていた言い訳を口にした。「まあ……動物アレルギーを持っていたの? それはお気の毒ね……。それで手放すことになったのね?」洋子は朱莉の手を握り締めた。「それでマロンはどうするの? もう誰か引き取り手が見つかったの?」「うん。たまたま同じマンションに住む方が同じトイ・プードルを飼っていて、その人とはドッグランで知り合ったんだけど、事情を説明したら引き取ってくれるって言ってくれたから。それにたまにはマロンに合わせてくれるって言ってくれたし」「そうなの……? でも貴女がそれで良くても……マロンの気持ちは?」母に指摘されて、朱莉はその時初めてマロンの気持ちに気が付いた。「あ……」「マロンはもうすっかり朱莉になついているのでしょう? そこを別の人に引き取られて、貴女がマロンに会いに行ったらお別れする時にマロンはすごく悲しむんじゃないの?」確かに言われてみればそうかもしれない。自分の都合で勝手にマロンを手放すのだ。マロンはもうすっかり朱莉に懐いている。そこを突然京極の手に委ねるのだ。突然変わる環境……そして元の飼い主である朱莉が気まぐれに会いに来て、連れ帰ってあげない。(これはマロンにとっては残酷なことかもしれないんだ……)「それじゃ……私はもう……マロンには会わない方がいいかもね……?」朱莉は母の前なので泣きたい気持ちをぐっとこらえる。「そうね……。貴女には酷な話しかもし
――21時「フウ……」マンションに帰宅した琢磨はネクタイを緩めると、テーブルの上にスマホを置いたとき、着信が届いている事に気付いた。着信相手は朱莉からだった。「朱莉さん……? ひょっとするとマロンの件なのか?」『こんばんは。いつもお世話になっております。明日はバレンタインですよね? 九条さんに日頃のお礼としてバレンタインプレゼントを用意させていただいたので、お渡ししたいのですが、どのように渡せばよろしいでしょうか? 住所を教えていただければ少し遅れてしまいますが郵送も考えております』「へえ……。朱莉さんが俺にもねえ……」琢磨はメッセージに目を通し、すぐに朱莉に電話を入れると3コール目で朱莉が電話に出た。『はい、もしもし』「こんばんは。九条です。今メッセージを読みました。ありがとうございます。私にバレンタインプレゼントを用意してくださったそうですね?」『はい。でもどうやってお渡しすればよいか分からなくて……すみません。メッセージを送ってしまいました』受話器越しから朱莉の戸惑った声が聞こえてきた。「あの、もしよろしければこれからプレゼントをいただきにそちらへ伺ってもよろしいですか?」『え!? い、今からですか?』「はい。実は明日は出張で東京にはいないんですよ。なので出来れば今日頂けたらなと思いまして。今から30分程で伺えますので。受け取ったらすぐに帰りますから……如何でしょうか?」『分かりました、ではお待ちしております』琢磨は電話を切ると、すぐに車のキーを取り、再び家を出た。本人は気付いてはいなかったが……その顔には笑みが浮かんでいた。30分後――琢磨が億ションの正面玄関に車を止めた時には、すでに朱莉が上着を着て外で待っていた。「あ……朱莉さん! こんな寒空の下、待っていたのですか!?」琢磨は車から降りると驚いて駆け寄った。「大丈夫ですよ。それ程長く待っていませんでしたから」朱莉は白い息を吐きながら笑顔で答え、琢磨に紙バックを手渡した。「あの……どんなのが良いか分からなくて九条さんはお酒が好きそうなイメージがあったので、アルコール入りのチョコレートを選んでみました。どうぞ受け取って下さい」「……どうもありがとうございます」琢磨は深々と頭を下げて朱莉から紙バックを受け取った。「あ、そう言えば九条さんにご報告があるんです」
――2月14日「翔、知っていたか?朱莉さんがマロンの引き取り手を見つけたっていう話」琢磨は出社して来た翔に話しかけた。「いや、初耳だ。そうか、決まったのか」返事をする翔に元気は無い。「翔、本当はお前マロンのこと、可愛いと思っていたんだろう? 出来ればずっと朱莉さんに飼い主になっていて貰いたいと考えていたんじゃないのか?」「そうだな。それが朱莉さんの幸せだと思っていたから」翔は上着を脱ぎ、コートをハンガーにかけた。「朱莉さんの幸せ? マロンを飼うことだけが朱莉さんの幸せだと思っているのか?」琢磨はイライラした口調で翔に文句を言う。「琢磨……今日のお前、どうしたんだ? 何だか機嫌が悪そうに見えるぞ?」「機嫌か……。確かにあまり良くはないかもな。悪かった。お前に当たるような言い方をして」琢磨は視線を落とすとPCに再び目を向けた。(どうしたんだ? 昨夜何かあったのか? いや、それ以前に琢磨はどうやって朱莉さんからマロンの引き取り手の事を聞いたんだ?)しかし、翔は琢磨にその事を尋ねる事は無かった。元々朱莉と琢磨は自分と朱莉の連絡事項を伝達する為に個人的にメッセージのやり取りをする仲なのだから、恐らく朱莉から連絡が入ったのだろう……と自分の中で考えをまとめてしまった。その後、暫く2人は無言で仕事をこなし、部屋にはPCのキーボードを叩く音だけが響き渡った――****――午前11時朱莉はドッグランでマロンを伴い、京極と待ち合わせをしていた。朱莉の傍らにはマロン愛用のグッズがキャリーバックの中に沢山入っている。マロンはすでにドッグランの中で楽し気に走り回っていた。そんな姿を朱莉は悲し気に見つめている。その時。「お待たせいたしました、朱莉さん」背後から不意に声をかけられて振り向くと、ショコラを腕に抱いた京極が立っていた。「あ……こ、こんにちは。京極さん」朱莉は立ち上がると頭を下げ、京極の連れているショコラを見ると目を細めた。「ショコラちゃんもこんにちは」「ほら、ショコラ。マロンちゃんと遊んでおいで」京極は腕に抱いたショコラを地面に降ろすと、ショコラは嬉しそうにマロンに向かって走って行った。その様子を見ると、朱莉に声をかけた。「それでは座って話しをしませんか?」「はい」朱莉は促され、再びベンチに腰を下ろすと、京極も席を1つ分空け
昨日のことだった。京極は朱莉の境遇について、一切尋ねることはしなかった。ただ、尋ねたのはマロンのことについてのみだった。そこで朱莉は咄嗟に母と同じ嘘を京極についてしまったのだ。夫が実は動物アレルギーで、マロンを飼うことが出来なくなってしまったと。そして義理の妹である明日香に言われてマロンを手放さなくなってしまったことを京極に説明したのだった。京極は最後まで黙って朱莉の話を聞き終えると「それなら僕がマロンを引き取りますよ」と言ったのだった――「それでは残りの荷物の件ですが明日またドッグランでお会いしませんか? マロンを連れて行きますので、会って行けばいいじゃないですか?」京極は笑顔で言ったが、朱莉は首を振った。「いいえ……。マロンに会うのは今日で最後にします」「え? 何故ですか?」京極は信じられないと言わんばかりの目つきで朱莉を見つめる。「病気で入院している母に言われたんです。自分の都合でマロンを手放すのに、会いに行くのはあまりにも勝手な行動なのでは無いかって。マロンは嬉しいことに、すごく私に懐いてくれています。でもきっと私が突然いなくなったらすごく悲しむと思うんです。それなのに会いに行けば、きっと私の元へマロンが帰りたがると思うんです。そうしたら京極さんに迷惑をかけてしまいます。ですから……」後の台詞は言葉にならなかった。朱莉は涙が出そうになるのを必死で堪えて俯いた。「分かりました……」京極はメモ帳とペンを取り出すと、スラスラと何かを書いて朱莉に手渡してきた。「これをどうぞ」「あの……これは……?」朱莉はメモ紙を受け取ると尋ねた。「これは僕の自宅の部屋番号です。在宅勤務で殆ど自宅にいますのでいつでもマロンの荷物を運んできていただいて大丈夫ですよ。あ、でも来る前に一度連絡を入れて貰ったほうがいいかな? 僕は部屋の中でもサークルに入れないで放し飼いをしているので、貴女の匂いに気付いてマロンが飛び出して来るかもしれないですからね。玄関の外で荷物を受け取りますよ」「はい、何から何までありがとうございます。それではマロンをよろしくお願いします」朱莉は立ち上がった。「朱莉さん。最後に……マロンを抱いていかなくていいんですか?」「いいんです……。だ、だって……マロンを抱いてしまったら別れがたくなってしまうから……」朱莉は泣くのを必死で堪え
――13時 あの後、琢磨と翔は新幹線に乗って名古屋にある支社に出張に来ていた。昼休憩を取る為にオフィスの外に出て、カレー専門店のキッチンカーに並んでいた琢磨のスマホに着信を知らせる音楽が鳴った。着信相手は朱莉からだった。(何だろう……? でも丁度昨夜のバレンタインのお礼も言いたかったし、食事が済んだらメッセージを送ってみよう)丁度その時、琢磨の番が回ってきた。「いらっしゃいませ。何にいたしますか?」店主がにこやかに声をかけてきた。琢磨はメニュー表をじっと見つめ……2人分のカレーを注文したのだった……。****「おい、翔。昼飯買って来たぞ」琢磨が2人分の食事を持って、2人の専用オフィスルームに戻って来た。「ああ、悪かったな、琢磨。今コーヒーを淹れるよ」翔は最近各オフィスに導入したばかりのコーヒーマシンがお気に入りで、度々利用していた。「琢磨、お前は何にするんだ?」「う~ん……そうだな。アメリカンにしてくれ」「へえ、珍しいな、いつもならもっと濃い味を好んでいるのに」翔は琢磨を振り返る。「まぁな、今日はカレーにしたんだよ」「へえ~どうりでスパイシーな香りがすると思った。いいじゃないか」「だろう? たまたまビルの外にキッチンカーが来ていたんだよ」「それじゃ俺もアメリカンにするか」翔は2人分のコーヒーを淹れるとテーブルに運んできた。「シーフードカレーとチキンカレーを買って来たが……お前はどっちがいい?」琢磨は2種類のカレーを翔に見せた。「それじゃ、シーフードカレーにするかな」「分かった。それじゃ俺はチキンだな」翔にシーフードカレーを渡すと、琢磨はコーヒーを飲んで笑みを浮かべる。「うん。やっぱりコーヒーマシンを導入して正解だったよ」「ああ。社員達にも好評らしいようだしな」翔はカレーを一口食べた。「美味いな」「ああ。こっちも美味いぜ?」美味しそうにカレーを食べている琢磨の姿を見ながら翔は尋ねた。「琢磨。実は朱莉さんのことなんだが……」「そう言えば、さっき朱莉さんからメッセージが入っていたな。食事が済んだら返信しようと思っていたんだ。丁度昨夜の礼も言いたかったし」「昨夜の礼……?」翔は首を傾げた。「ああ、実は昨夜朱莉さんからメッセージを貰ったんだ。俺にもバレンタインプレゼントを用意してくれたらしくて。今日は
(明日香……今夜は自宅に一人ぼっちにさせてしまうことになるが、大丈夫だろうか……?)「どうした、翔? ボーッとして」いカレーを食べ終わっていた琢磨は翔に声をかけてきた。「い、いや……。今夜明日香はあの広い部屋に一人ぼっちですごさなければならないから、大丈夫か心配で……って……な、何だよ琢磨。その目つきは……」いつの間にか琢磨は翔を睨み付けていた。「お前なあ……それを言うなら朱莉さんはどうなんだよ? お前と去年の5月に契約婚を結んで、今はもう2月だ。どれだけあの広い部屋で1日中1人で過ごしてきたのか分かってるのか? それを、俺達は最高で後5年間は朱莉さんにその生活を強いる訳なんだぞ? 明日香ちゃんのことばかりじゃなく、たまには朱莉さんにもその気遣いをみせたらどうなんだ? 時には様子を見に行ってあげたりとか……って今更お前に何を言っても仕方が無いか」琢磨は深いため息をついた。「悪いが、俺は明日香の事で手一杯なんだ。朱莉さんのことまでは気にかけてやれない。だからそれなりに彼女には毎月お金を支払っている訳だし……。そうだ、琢磨。お前が時々様子を見に行ってやれないか? 例えば週に1度とか……」その話を聞かされた琢磨の顔色が変わった。「はあ? 何言ってるんだ? それこそお門違いだろう? 大体書類上とは言え、お前と朱莉さんは正式な夫婦なんだから。そこへどうして俺が朱莉さんの所へ顔を出せる? 年に数回とかならまだしも、しょっちゅう顔を出して仮にマスコミに知れたらどうするんだ? これが他の男なら話は別だが、俺はお前の秘書なんだからな? あらぬ噂を立てられて面白おかしく騒がれたらたまったものじゃない。だから翔。俺は朱莉さんに土産を買って来るから、お前から朱莉さんに俺からの土産だと言って渡しておいてくれよ」それだけ言い残すと琢磨はダストボックスに食べ終えたトレーを捨てると上着を着た。「琢磨、何処へ行くんだ?」「まだ昼休憩が終わるまで30分あるだろう? 駅の周辺の土産物屋に行って来る」そう告げると、琢磨は足早にオフィスを出て行った。その後姿を見送ると翔は深いため息をつくのだった—―****丁度その頃――朱莉は京極の部屋の前に立っていた。手にはマロンのペットフードや食器、シャンプー剤などが入った帆布の袋がぶら下げられている。緊張しながらも朱莉はインターホンを
その頃、琢磨と翔は仕事の合間の小休憩していた。「翔、明日はホワイト・デーだ。しかも週末。何か予定は立てているのか?」ブルーマウンテンを飲みながら琢磨が尋ねた。「勿論だ。フランス料理のレストランを予約してあるんだ。そこへ行く」翔はカフェ・ラテを飲みながら答えた。「……何人で行くつもりだ?」「え? 2人で行くに決まっているだろう?」「それって……明日香ちゃんとか?」何故かイライラした口調の琢磨。「勿論だ。え? もしかして朱莉さんも誘えってことか?」「朱莉さんはどうするんだよ? お前手編みのマフラー貰ってるよな?」「彼女にはギフトとして若い女性に人気のスイーツを買ってある。明日自宅に届くように配達を頼んでいる所だ」翔の無神経な言葉に琢磨はつい声を荒げてしまった。「おい、翔! 何処の世界にホワイト・デーのお返しをお中元やお歳暮じゃあるまいし郵送する奴がいるんだ? しかも朱莉さんはお前達のすぐ真上の階に住んでるじゃないか! 直接届けて顔を見せてあげようとかは思わないのか?」「何を言ってるんだよ、琢磨。明日香の手前、そんなことが出来ないのは知ってるだろう? それに彼女が俺にマフラーを編んでくれたのも一応書類上は俺の妻になってるからだ。その役目を果たそうと編んでくれたんだろう? 第一俺と朱莉さんは契約婚で、そこに何らかの感情が伴っている訳でも無いのだから」翔の言葉に琢磨は呆れてしまった。(はあ? 翔の奴、本気でそんな風に思っていたのか? あれ程朱莉さんに好意を寄せられてるってことに全く気が付いていないって言うのか? 信じられない……これでは、あまりに朱莉さんが気の毒過ぎる!)だからつい、余計な事と思いつつ琢磨は口にしてしまった。「だったら……だったら何故、俺に朱莉さんへのホワイト・デーのお返しを渡すのを頼まなかったんだ?」「は?」翔がぽかんとした顔で琢磨を見た。そして琢磨も今の発言に自分自身で驚いていた。(え……? お、俺は今一体何を言ってしまったんだ?)考えてみればおかしな話である。第三者がホワイト・デーのお返しを渡すなんて、世間一般では考えられない話だ。「わ、悪い。今の話は忘れてくれ。……どうかしていたよ……」琢磨は再びコーヒーに口を付けた。「琢磨は朱莉さんからバレンタインに何か貰ったのか?」「ああ。貰った」「へえ~何を
3月13日―― 今日も朱莉は母親の面会に来ていた。「お母さん、今日はネイビーの写真を持ってきたよ」朱莉はスマホで撮影したネイビーの写真を母に楽しそうに見せた。「あら、本当に可愛いわね。絵本のピーターラビットを思い出すわ」洋子は目を細めて写真を眺めている。結局、洋子は翔と朱莉、そして明日香の関係を尋ねる事は無かった。それは母の気遣いであることは痛いほど朱莉には分かっていた。だけど真実を母に告げる事等朱莉には出来ない。だから今は母のあえて何も聞かないという優しさに甘えていたいと朱莉は思うのだった。(ごめんね。お母さん……いずれ話せる時が来た時は全て話すから)朱莉はそのとき、ふとテーブルの上に琢磨が母にとプレゼントしてくれたマグカップに気が付いた。「お母さん、そのマグカップ使っているんだね」「ええ、デザインも素敵だし大きさも、持ちやすさも丁度良いのよ。確かお名前は……九条さんだったかしら? センスがある素敵な男性よね?」洋子はニコリと笑う。「そ、そうだね……」(お母さん、どうしちゃったんだろう? いつも九条さんの話になるとすごく褒めるけど……)「ねえ。朱莉は九条さんのような男性、どう思う?」洋子は意味深な質問をしてきた。「え……? 九条さんのこと?」朱莉は今迄の琢磨の行動を思い出してみた。もっとも最近は会う事も無く、最後に会ったのもこの病棟の中である。「う~ん。すごく仕事が出来て……気配りも出来る男性……かな?」「あら? それだけなの?」何故か残念そうに言う洋子に朱莉は首を傾げた。「う、うん……。そうだけど?」「そう……分かったわ。ところで朱莉、もう帰った方がいいんじないの? 通信教育のレポートの課題がまだ残ってるんでしょう?」「う、うん。そうなんだけど……」「私のことなら大丈夫だから、早く帰ってレポート仕上げなさい。単位が貰えないと大変なんでしょう?」朱莉は母親の提案に従うことにした。「うん。それじゃ、今日はもう帰るね」立ち上がって、コートを羽織る朱莉に洋子は声をかけた「朱莉、明日は特別な日になるといいわね?」「え? 何のこと?」朱莉には母が言っている話が理解出来なかった。「フフフ……なんでもないわ。それじゃ気を付けて帰るのよ?」「うん、それじゃまたね。お母さん」**** 病院を出たのは18時だった
――17時「はぁ……」お見舞い用の花束を抱えてため息をついていた。母に翔との関係を問い詰められるのが怖くて、青ざめていた昨日の母の姿を見るのが辛くて……ついこんな時間までぐずぐずしてしまっていたのだった。入院病棟の前で何度かため息をついて、中へ入ろうと深呼吸した時――「朱莉さん!」振り向くと、若干呼吸を乱した琢磨が立っていた。驚きのあまり、朱莉の目が丸くなる。「ど、どうしたんですか? 九条さん」すると琢磨はツカツカと朱莉の傍へ寄ると、驚く位の至近距離で立ち止まった。「あ、あの……く、九条さん……。ち、近いです……」壁際近くまで追い詰められ、身体が触れ合う程に近付かれた朱莉は花束を抱え、俯いた。その瞬間、琢磨は自分の行動に初めて気づいて慌てて距離を取った。「ご、ごめん……翔から朱莉さんのお母さんが昨夜救急車で運ばれたって話を聞かされて……つい……」謝りながら、琢磨は自分自身で驚いていた。距離感が分からなくなるくらいに我を失うなんて今までの人生で経験したことが無かったからだ。「い、いえ。いいんです。それだけ気にかけていただいたってことですよね? ありがとうございます。翔さんの秘書と言うだけで私にまでご親切にしていただいて感謝しています」「朱莉さん……」「あ、今母の面会に行くところなんです。だから……」どうぞお帰り下さい、朱莉はそう伝えるつもりだったのだが……。「俺も面会……させて貰えるかな?」琢磨は朱莉に紙バックを差し出した。「え……? これは何ですか?」朱莉は差し出された紙バックと琢磨の顔を交互に見て、首を傾げた。「朱莉さんのお母さんは入院されているから食べ物は駄目だろうと思って、江の島の雑貨店でマグカップを買ってみたんだ。気に入ってもらえるかは分からないけど……」少し照れた様子の琢磨を朱莉はじっと見つめる。「九条さんて……何だか意外ですね」「意外?」首を傾げる琢磨。「はい。何だか意外です。翔さんの副社長の秘書という立派な仕事をされている方だったので常に冷静沈着な方だと思っていたんです。日常生活でも……」「……」琢磨は黙って朱莉の話を聞いていた。「でも、親しみやすさもあって……そういうところ、いいなって思います。マグカップ、どうもありがとうございます。母に手渡しておきますね」「朱莉さん。俺は面会させて貰
悲し気な顔で明日香と翔の後姿を見送る朱莉。その様子を京極は黙って見つめていたが……やがて口を開いた。「朱莉さん。僕はまた余計なことを話してしまったのでしょうか…?」京極の顔は悲し気で、その声は辛そうに朱莉は思えた。「いえ。そんなことはありません。母に嘘をつくのは正直辛かったので、かえって本当のことをあの方達に知って貰えて良かったかもしれません。京極さん、マロンをいつも可愛がっていただき、ありがとうございます。それじゃ、私用事がありますので失礼します」朱莉が立ち去ろうとした時。「朱莉さんっ!」振り向くと、何処か切羽詰まった表情の京極が見つめている。「もし、出掛けるのであれば……ご一緒出来ませんか? それともどなたかと待ち合わせですか?」何故京極がそんな切迫した目で自分を見つめてくるのか、朱莉には少しも理解出来なかった。だが……これ以上京極と関わっては明日香と翔、そして自分の関係が京極にバレてしまう可能性がある。だから朱莉は嘘をついた。「はい、すみません。人と待ち合わせがあるんです。本当に……すみません」「それはこの間貴女と一緒にいた男性ですか? 貴女の夫の秘書だと言う男性ですか?」「え? まさか……九条さことことを言っているのですか?」「九条……そうですか。あの男性は九条と言う方なんですね……」京極は目を伏せながらポツリと呟く。その様子を見て朱莉は不思議に思った。(どうしてだろう? 京極さんは九条さんの話になると何だか様子がおかしくなるような気がする)「あ、あの……京極さん。私と九条さんは別に……」「しつこく質問をしてしまってすみません朱莉さん。出かける処をお引き留めしてしまいましたね。それじゃ失礼します」京極は会釈し、マロンとショコラの元へと向かって歩いていく。「京極さん……」朱莉はそんな彼の後姿を複雑な思いで見つめるのだった――**** 琢磨は今、車で1人江の島へと来ていた。別に何をするでもなく1人で海を眺めていると、数人の女性たちから声をかけられた。琢磨はそれら一切全てをうるさそうに追い払うとため息をついた。以前までは江の島は好きな場所だった。江の島の町の雰囲気……潮風は普段大都会に住んでいる琢磨にとっては気分転換になる場所だったのだが、今は……。「全く……俺は1人でこんなところまで来て、一体何をやっている
「あら、朱莉さんじゃないの?」朱莉は突然背後から声をかけられた。恐る恐る振り返り、翔と明日香が仲睦まじげに腕を組んでいる姿が目に飛び込んできた。(翔先輩……!)その瞬間目頭が熱くなり、涙が出そうになった。しかし、それを必死で我慢すると挨拶した。「こ、こんにちは。明日香さん、翔さん」翔は朱莉が1人でいるのを見て顔色を変えた。「朱莉さん……一体どうしたんだ? 昨夜はあの後、メッセージを送っても返信が無いし、部屋を訪ねても留守だったみたいだけど?」どうしよう……。本当の事を言うべきだろうか? 朱莉はチラリと明日香を見た。(駄目……明日香さんがいるから本当のことを言えない……それなら……)「あ、あの。やはり母が疲れたから病院に戻ると言ったので……タクシーに乗って病院へ連れて帰って戻ったんです」俯きながら朱莉は答えた。「何だ……そうだったのか。何かあったのでは無いかと心配したんだよ」翔は安心した表情を浮かべる。「あら、そうだったの? 人騒がせな話ね」「……ご心配おかけしました……」眉を顰める明日香に朱莉は謝罪した。「どうして本当の事を言わないんだい? 朱莉さん」その時。突然近くから男性の声が聞こえ、朱莉たちは一斉に声が聞こえた方向を振り返った。するとドッグランの柵に頬杖をついて、朱莉たちを見下ろしている人物の姿があった。「きょ……京極さん……」朱莉はごくりと息を飲んで京極を見上げた。一体いつから京極は自分たちの会話を聞いていたのだろうか? 一気に緊張が高まり、朱莉は両手をギュッと握りしめた。「あら? 貴方は確か……」明日香が首を傾げる。「ええ。僕が朱莉さんの犬を引き取った者です」一方、何のことかさっぱり分からないのは翔の方であった。しかし、朱莉の犬を引き取って貰ったとなるとお礼を言わなければならない。「朱莉さんの犬を引き取ってくれたと言う方は、ひょっとすると貴方だったのですか? どうも有難うございました」翔は頭を下げると京極は眼を細める。「貴方はどちら様ですか?」尋ねたその瞳はどこか棘がある。「え……?」2人の様子を見た朱莉は焦った。(いけない! 今翔先輩は明日香さんと腕を組んでいる……。もし翔先輩が正直に話してしまったら……!)「あ、あの……この方はこちらにいらっしゃる明日香さんと言う方の……お兄様に当たる
—―日曜日 琢磨は朱莉と翔があの後どうなったのか気になって仕方が無かったので、とうとう我慢できずに翔にメッセージを書いた。『翔、昨夜は朱莉さんと朱莉さんのお母さんときちんと会って話が出来たんだろうな?』そして送信する前に再度メッセージを読みなおし……何だか馬鹿らしくなってきた。「何だって言うんだ……? 別に俺にはあの2人のことなんか全く関係が無い訳だし……」スマホをソファに放り投げると、琢磨はポツリと呟いた。「久しぶりに江の島にでも行ってみるか……」今日は何故か家でじっとしている気になれなかった。琢磨は立ち上がると出掛ける準備を始めた——****「明日香、今朝の体調はどうだ?」琢磨はまだベッドの中にいる明日香に声をかけた。「うん……。大分良くなったかしら……」ベッドの中でまどろみながら明日香は返事をする。「そうか、これから朝食の準備をしようと思うんだが……食べれそうか?」翔は明日香の額に手を当てながら尋ねた。「うん、大丈夫よ。ねえ、何を作ってくれるの?」「ツナのピザトーストにオムレツ、野菜スープを作る予定だ」「わあ、美味しそう。それじゃ起きなくちゃね」明日香はウキウキとベッドから起き上がると、翔の首に腕を回してキスをする。「愛してるわ、翔」「ああ、俺もだよ……明日香」翔は明日香をしっかり抱きしめると耳元で囁いた――****「はい、どうぞ。ネイビー」朱莉はネイビーに餌と水をやると、ネイビーは口をモグモグ言わせ餌を食べ始めた。その姿はとても愛らしく、朱莉の心を癒してくれる。「ふふふ……本当に可愛い……」フワフワのネイビーの背中を撫でながら朱莉は笑みを浮かべた。それと同時に脳裏によぎるのは京極に預けたマロンの姿と、青ざめた顔でベッドに横たわる母の姿。 15時になったら朱莉は母の面会に行こうと思っていたが、正直会うのは怖かった。昨夜、あの母の取り乱した様子を見れば、絶対に何か気付かれてしまったのは間違いない。それを今日、面会に行って追及されたら? 母に嘘をつき通せる? それともいっそ母には誰にも言わないでと口止めをして契約婚の事を話してしまおうか……?「駄目……そんなの出来っこない。私がお金の為に契約婚をしたことを知ればお母さんは私を軽蔑するかもしれない。傷付くに決まっている。最低でも後5年……お母さんには何もバ
「え……? そ、それはどういうことですか……?」「お母様の方から、どうしても外泊許可を出して貰いたいとせがまれたのですよ。なのでこちらも断念して外泊許可を出したのですが、やはりまだ無理だったんですよ。面会されて行きますよね? 簡易ベッドがあるので、泊まり込みも出来ますが、どうされますか? でも無理にとは言いません。こちらで患者さんの様子はしっかり見ますし、今はもう安定していますから」「は、はい……」朱莉は一瞬躊躇したが……部屋にはネイビーが残されている。なので朱莉は病院に泊まり込むのは無理だった。「あの……どうしても家を留守に出来ないので面会だけして帰ります」朱莉は俯きながら答えた。「そうですか。分かりました。では……我々はこれで失礼しますね」主治医は頭を下げると、看護師を連れて朱莉の前から去って行った。それを見届けると朱莉はそっと病室のドアを開けて中へと入って行く。「お母さん……」ベッドに横たわった朱莉の母は顔色が真っ青だった。点滴に繋がれ、酸素吸入を付けられた母を見ていると胸が潰れそうに苦しくなった。朱莉は眠っている母に近付くと、ギュッと母の手を握り締めた。「ごめんなさい……。お母さん……。私が心配かけさせちゃったから、無理に外泊許可を貰ったんだよね……? あんなことがあったから具合が悪くなっちゃったんだよね……?」朱莉は涙を流しながら母の手を握りしめながら思った。自分は何て親不孝な娘なのだろうと。(ごめんなさい……ごめんなさい……)朱莉は心の中でいつまでも母に謝罪を繰り返し続けた——**** 病院の帰りのタクシーの中、朱莉は翔との連絡用スマホを手に取った。そこには朱莉宛にメッセージが残されていた。『朱莉さん、今夜は本当に悪かった。夜、明日香の元へ来てくれるはずの家政婦さんが体調を崩して来れなくなてしまって、不安に思った明日香が過呼吸の発作を起こしてしまったんだ。なので明日香の側をれる訳にはいかなくなってしまった。1人にする事は出来ない。申し訳ないがお母さんによろしく伝えてくれないか? それにやはり親子水入らずで過ごしたほうが良いだろう? また明日連絡を入れるよ。それじゃ、おやすみ』朱莉は呆然とそのメッセージを見つめていた。翔が明日香を一番優勢に見ているのは分かっていた。分かってはいたが、ここまではっきり現実を突きつけられて
「明日香、大丈夫か!?」翔は玄関で靴を脱ぎ捨てるように部屋の中へ駆け込むと、リビングのソファに倒れ込んでいる明日香の姿を発見した。(明日香っ!!)「明日香! 明日香! しっかりしろ!」慌てて助け起こすと、明日香はぼんやりと目を開けた。「あ……」明日香は激しい呼吸を繰り返し、息を吸い込もうとしている。(過呼吸の発作だ!)咄嗟に気付くと、明日香に声をかけ続けた。「明日香……落ち着け……ゆっくり息を吐いて呼吸するんだ……そう、その調子だ……」明日香を抱き締めながら、暗示をかけるように明日香の耳元で繰り返し言う。やがて、明日香の呼吸が安定してくると、翔は身体を離した。「明日香……今水を持って来るから待ってろよ?」ウオーターサーバーから水を汲んでくると、翔は明日香を支えて水を飲ませた。明日香はゴクゴクと水を飲み干すと、ようやく息を吐いて翔を見つめる。「明日香……一体どうしたんだ? 家政婦さんはまだなのか?」翔は明日香の隣に座ると尋ねた。「突然今日やって来てくれる家政婦が発熱したらしくて今夜は来れなくなってしまったそうなの……」「そうなのか……?」「だから……今夜は1人になってしまうかと思うと怖くなって、それで発作が……」明日香は翔にしがみ付くと叫んだ。「ねえ! 翔……何処にも行かないでよ! お願い……私の側にいて……独りぼっちにさせないでよ! 1人は嫌……怖くてたまらないの……!」そして肩を震わせながら翔の胸に顔を埋めた。(明日香……)「分かったよ、明日香。安心しろ……。ずっとお前の側にいるから……」翔は明日香の髪を優しく撫でた。「本当に……? 本当に側にいてくれるのね?」明日香は眼に涙を浮かべながら翔を見つめる。「ああ、勿論側にいるよ。朱莉さんにはお母さんもいることだし、大丈夫だろう。それにやっぱり親子水入らずにさせてあげるべきかもしれないしな。今朱莉さんに電話を入れるよ」翔はスマホをタップしたが、一向に朱莉は電話に出なかった。「おかしいな……? 何で出ないんだろう?」翔は首を傾げた。「何?朱莉さん…電話に出ないの?」明日香は翔を見ると尋ねた。「ああ……そうなんだ。こうなったら直接朱莉さんの所へ行って来るか。明日香、悪いけど少しだけ留守番をしていて貰えるか? すぐに帰って来るから」「ええ……分かったわ。で
(え……? 鳴海……翔……? この顔、以前何処かで見た気がする。でも……一体何処で……?)その時、朱莉が声をかけてきた。「あの、それじゃ食事の準備が出来たので皆で食べましょう?」「ああ、そうだね。へえ~すごく美味しそうだ」琢磨は笑顔で食卓に着くと、朱莉は顔を赤らめて翔の隣に座った。そんな様子を見て洋子は思った。(朱莉はこの男性のことが好きなのね。でも何故かしら? 私としては病院迄来てくれた男性の方が好ましいと思うけど……)食卓にはシチューとマッシュルームとベーコンのバターライス、サーモンとアボガドのサラダが用意されていた。朱莉は生れて初めて、翔を交えた母と3人の食卓を囲んだ。朱莉の胸は幸せで一杯だった。ずっと片思いをしていた翔と、そして大好きな母と3人で今、こうして食事をしているのが、まるで夢のようだった。翔は始終優しい笑顔で朱莉と、朱莉の母に自分の趣味や仕事のことを話して聞かせてくれた。やがて食事も終わり、洋子は奥のリビングで休んでいた。そして朱莉が片づけを始め、翔が手伝おうとしていたその時……。突然翔のスマホが鳴り響いた。それを手にした翔の顔色が変わったのを朱莉は見逃さなかった。「翔さん……その電話、明日香さんからじゃないですか?」朱莉は翔に尋ねた。「あ、ああ……。そうなんだ……」翔は困ったように朱莉を見た。「どうぞ、電話に出てあげてください。明日香さん、何か困ったことが起きてるかもしれませんし」「あ、ああ……すまない。朱莉さん」言うと翔はスマホを手に取った。「もしもし……。明日香? どうした? おい、明日香! 返事をしろっ! ……くそっ!」その声にリビングで休んでいた洋子も何事かとやって来た。翔は電話を切ると朱莉に向き直った。「すまない。朱莉さん。……明日香の返事が返ってこないんだ。何かあったのかもしれない……。本当に申し訳ないが……」「ええ、私なら大丈夫です。どうぞ明日香さんの元へ行ってあげて下さい」朱莉の言葉に洋子は驚いた。「え!? 明日香さんて……一体誰のことなの!?」すると翔は頭を下げた。「お母さん……本当に申し訳ございません。明日香が苦しんでいるのです。すみませんが、彼女の元へ行かせて下さい!」そして頭を下げると、朱莉の方を振り向いた。「朱莉さんも……本当に……ごめん!」翔は上着を掴むと足早